ピアノソナタ、第1&3楽章は「天国」のイメージで

2018年夏に第2楽章だけを作ったピアノソナタ。知り合いのピアニストの方に試し弾きをしていただいていますが、残りの2つの楽章が中々まとまりません。この間、海外文学の翻訳出版で忙しかったことが最大の理由です。

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第2楽章のイメージは、現代日本の首都圏近郊での暮らしの感慨といったものを聴き手の方には感じ取っていただきたいと思っています。一方、残りの2つの楽章のイメージはずばり「天国」です。天国に行ったこともないのに天国を描くことはできるか?とは言えますが、我々現代日本人が深層心理の中でイメージしている天国を感じ取れるような曲にしたいです。そのような目標を置いていることも作曲の遅れの理由のひとつです。

深層心理ですから、ずばり口に出すと、特に公衆の面前、公的な場では奇人変人扱いされるでしょう。でも考えてみましょう。ドビュッシーの名作「喜びの島」は愛人との果てしない性行為から着想を得た作品です。天国は「喜びの島」であって欲しいという願望を抑圧せずに言うことのできる世の中になって欲しいものです。

例えば、日本には古来から混浴温泉がありましたが、江戸時代における興隆の後、明治になって外国人の意見で規制が始まり、第二次世界大戦の敗戦後、旅館業法によって混浴は原則禁止となってしまいました。今は主に伝統のある山奥の秘湯で細々とお目こぼしのように生き残っているだけで、前途は厳しいと言わざるを得ません。ですが、日本の古代における状況を思い起こしてみましょう。古代にはこういったことに関しては実におおらかでした。「古事記」「日本書紀」「風土記」の時代の性に対するおおらかさを今の世に再現することも、我々の住む世界が天国に近づいていくための一つの足掛かりではないかと、思います。

以下、丸善出版「47都道府県 温泉百科」山村順次著(平成27年)16ページから抜粋

3温泉地の発達 古代

・・・玉造については、『出雲国風土記』に次のように記されており、温泉による禊払いの風習とともに、老若男女が集まって温泉を神の湯と崇め、楽しみ、湯治をしていた様子を伝えている。

 忌部の神戸、郡家の正西二一里二六〇歩なり。国造、神吉詞奏(かむよごとまを)しに、朝廷に参向ふ時、御沫(みそぎ)の忌里なり。かれ忌部といふ。すなはち川の辺に出湯あり。出湯のあるところ、海陸を兼ねたり。よりて男女老いたるも少なきも、或いは道路に駱駅(つらな)り、或いは海中の洲に沿いて日に集い一をなし、績紡(さがり)に燕楽(うたげ)す。一たび漕げばすなはち形容端正(かたちきらきら)しく、再び沐すればすなはち万の病悉く除(い)ゆ。古より今に至るまで、験を得ずといふことなし。かれ、俗(よ)の人、神の湯といへり。